講師:刈谷市歴史博物館学芸員 水野節子氏

2025.5.21「傳兵衛クラブ刈谷」5月勉強会、刈谷市出前講座を利用して「水野勝成」を学芸員 水野節子さんに語っていただきました。
刈谷城主初代藩主となった勝成公の生い立ち、戦上手で波乱万丈の青年期、後年の名君統治の時代。
やはり学芸員であり水野家のお話しも話しに深みもあり、聴き入ってしまいました。刈谷市の出前講座でこれ程の学習が出来ること、満場で感謝でいっぱいです。
講座の後、近藤律子さんの「牛久シャトー弾丸ツアー」の報告もいただきました。お土産もいっぱいで感謝します。(川口代表F.B.より)


前半は「戦勝つなり!」波乱万丈
後半は「統治、治世」の時代
勝成公の人脈、縁を伝えていただきました。

パワフルりっちゃんの行動力とお土産に驚きと感謝です。





(歴史上の人物を末裔に学ぶ①)
(5/21)水野忠邦勝成公。
初代刈谷城主&福山城主。刈谷市歴史博物館水野節子学芸員の出前講座。丁寧に、水野勝成公の人生を語って下さり、感謝。神谷傳兵衛倶楽部刈谷の5月例会(18:30〜)に遅刻しながらも。参加できて、光栄。
勝成公は、家康公のいとこで、於大様の甥っ子。桶狭間の4年後に生まれている。少年時代は、父水野忠重公について合戦に参加。三方ケ原の戦いでは、忠重公は、家康の影武者をしたという。本人の初陣は、16歳で、高天神城の戦い。本能寺の変の頃は、信長の子信忠の配下なれど、東福寺にいて難を逃れる。小牧・長久手の戦いで、兜を被らず、戦陣に出て父に怒られる。父との確執があり、出奔。いろんな大名に仕官し、戦歴を重ねる。36歳、秀吉死後、父と和解。関ヶ原前に上杉討伐で父が死、刈谷の家督相続。関ヶ原では、前線基地大垣城を攻める。大坂夏の陣で、あの後藤又兵衛を討ち取る。これだけで、凄い武者と分かる。
江戸時代は、まず郡山藩主5年。福山藩主時代に、福山城築城し、城下町の整備と産業の振興で、まちづくりに力を発揮。75歳で島原の乱に、息子・孫と出陣。88歳で、武将としては、大往生。その間、伊達政宗や宮本武蔵との交流も多い。等々、知らなかった話も含め、非常に興味深かった。
「鬼日向」と言われて、やたら強いイメージの戦国武者の認識しか無かったが、血の通った人間として、波乱の時代を生き抜いた人物と知った。今後も注視していきたい、歴史上の人物。
<ChatGPTで、概略紹介。>
「水野勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名です。彼は三河国刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て、備後国福山藩の初代藩主となりました 。
勝成は「鬼日向」との異名を持ち、戦場での勇猛さが際立っていました。若い頃は諸国を転々とし、多くの名将に仕えましたが、気性が荒く、しばしば主君と衝突して出奔することもありました 。しかし、最終的には徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍しました。
晩年は福山藩の藩政に尽力し、城下町の整備を進めるなど名君としての側面も持っていました。さらに、島原の乱の鎮圧にも参加し、75歳という高齢ながら戦場に立ったことでも知られています 。
彼の生涯はまさに波乱万丈で、戦国時代の猛将としての顔と、藩主としての統治者の顔を併せ持つ人物でした。」
(井上 新 氏F.B.より)





